人は何の為に生まれ何の為に生きるのだろう……僕とあなたの生きる道。   幸せの秘密を知りたい人は「青い鳥」を、悟りの平安を知りたい人は「黄金の果実」を探してみて下さい。「映画」はネタバレ有、ご注意を。

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自己実現の妙

アラン(フランスの思想家)
「人は自分から抜けだすほど、一層自分となる。また一層よく自分の生きていることを感ずる。薪を穴倉の中でくさらせてしまってはならぬ」

『幸福論』


一時期「本当の自分探し」というフレーズが大流行したが、あの頃本当の自分に出会えた人間は一体どのくらいいたのだろうか?
自分とは何者であるか?本当は何がしたいのか?と探せば探すほど、今の私は本当の私じゃない!?などと、私たちは自分から遠く離れていく。
何をしようと「私は私」であるというのに・・・。
自分の全存在(いのち)をかけて一所懸命に生き抜くとき、それを「私らしくない」「あなたらしくない」などと否定できるものがどこにいようか。

道元禅師曰く「心身脱落 脱落心身」・・・私を無くした状態(何かを為すべき「私が有る」のではなく、ただ「私で在る」こと)こそが本当の私であると。

またハイデガーはこう語る。
私たちは否応なしにこの世界へと投げ出された無意味な存在(被投性)であるが、だからこそそこで主体性を持って、自分で自分を世界の中へ投げ入れる(投企)ことによって、存在と自由の真の意味が得られるのであると。 
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リラクゼーションと癒し
「ストレス解消法2」では、主に「身体の弛緩」=「リラクゼーション」に目を向けてみたが、一転「心の弛緩」へと目を向ければ、それは「癒し」と呼ばれる。

目に見えないこの「心の弛緩」とは一体どんなものなのかを考えてみるにあたって、まず私たちはどんな時に「癒されたぁ~」と感じるのかを見てみよう。
2002年12月に実施した富山大学の大学生を対象に行ったアンケート調査によれば、「安心感・安らぎを感じたとき」とする人が70%、「心の疲れがとれたと感じるとき」とする人が55%という結果であったそうだ。
心の疲れといっても、「心」というのは概念であって物質ではないから、実際に「心」が疲れるわけではない。
緊張感・気が張っている状態(=不安)が解決されて安心感・安らぎを感じている状態になったことを「心の疲れがとれた」と表現しているわけであるから、両者は同じことを言っていると考えられる。

私たちの心に不安があるときには、筋肉と同じように心もギューっと縮こまって硬くなっている。
ダンゴムシや亀やアルマジロを見れば分かるように「自分を守ろう守ろう」としているわけだ。
そうすると自分を守ることが出来る代わりに(いやむしろ突破され、結果ズタボロになることの方が多いわけだが・・・)周りが見えなくなってしまう。そして物事や人の意見を受け入れることが出来ない。ちょっとしたことにイライラしたり、必要もないのに怒鳴ったりして威嚇する。まるで心はハリセンボンのようにトゲトゲになっている。
「気分転換法3」の方法を使うとそんな「心」がよく観察できるはずだ。

ところで、癒し系女優といえば「井川遥」であろうか。癒し系キャラクターといえば「たれぱんだ」などが思いつく。どちらも鋭い知性やちゃきちゃきした活動的な感じではなく、ほんわかのんびりした天然系のゆる~い感じ。
また、小動物やちっちゃい子を見ていると癒されるという人は多いはずだ。
逆に大型肉食獣に癒される人はほとんどいないだろう。なぜなら彼らを目の前にして癒されていたら、それは即死を意味するのだから。

つまり、私たちが癒される対象は、どれも自分より弱い存在。自分が脅かされない存在。
だから自分を守る必要がない。不安になる必要がない。

癒し=心の弛緩=不安の解消=自分を守る必要が無くなること

そうして不安が解消され、安心しているときには、私たちの心はスポンジのように柔らかくなっていて、その時には物事や人の意見を受け入れる、スーっと吸収することができる。
自分を守る必要がなければ人と争う必要もなくなるのだ。
そして逆説的だが守ろう守ろうとしない心は傷つかない。
ピンと張った紙はよく切れるが、宙に舞っているティッシュペーパーを切ることが出来ないように。

心の平安=柔軟心=開かれた心=100%受け入れること

すると、自然と感謝の気持ちが湧いてくる。慈しみの心が芽生えてくる。何も考えずとも人の為に動ける自分がそこにいる。人生の意味がひしひしと感じられてくる。

あ~、わたしはいまここにいる!

なるほど「癒し」とは「幸せ」の道である。(このあたりの論理の飛躍は「幸福論2~幸せの本質」をご参照下さい)

ストレス解消法2
さて、究極のストレス解消法とは何だろうか?
ストレスとは刺激に対する緊張であるから、最も心身が弛緩している時が最もストレスのない状態であるといえる。
心と身体はつながっているから、どちらかを弛緩させればもう一方も自動的に弛緩する。
心は目に見えないから、ストレス解消「法」として意識的・積極的に働きかけるのならば、心を弛緩させる方法よりも身体を弛緩させる方法を考える方が分かり易いだろう。
そして、最も身体が弛緩する時・・・それは私たちが寝ている時である!

「あなたのストレス解消法は何ですか?」と聞かれて「う~ん、寝ることかな?」と答える人は結構多いと思う。みんな無意識のうちに答えを知っているんですね。
睡眠においては、入眠後1時間30分ほどの「ノンレム睡眠(脳の休息)」の後、数分から10分程度の「レム睡眠(身体の休息)」があり、一晩に4~6回このサイクルが繰り返される。
レム睡眠とは、Rapid Eye Movements(急速眼球運動)の頭文字を取ったものであるが、このレム睡眠中は、骨格筋(抗重力筋、姿勢筋)の緊張が解け、「全身弛緩状態」(でもアソコだけはなぜか硬くなっていらっしゃるらしい(笑))となり身体を動かさない。
全身弛緩状態でいられるのは、緊急情報以外の外部からの刺激が一切シャットアウトされるためである。
だからレム睡眠時は、揺さぶりおこしても目が覚めにくく、安静覚醒時の脳波であるα波に近い脳波が出される。
ちなみにどんなに揺さぶっても起きない人を何とか起こしたいと思うならば、耳元で「火事だぁー、逃げろー!」と叫んでみよう。すぐに飛び起きるはずだ。人間の身体は何ともうまく出来ているものだ。

睡眠以外で外部からの刺激を断つ方法としては、「アイソレーション(隔離)タンク」というものがある。
これは、1954年、アメリカの神経生理学者ジョン・C.リリィによって発明されたもので、五感の感覚を遮断して身体性を消去させる。

光も音も消失したカプセルの中で体温に調節された水溶液にゆったりと浮かぶこと・・・それは日常がとりまく様々なノイズからココロとカラダを完全に解き放つことを意味していました。リリィがそこで自ら体験したのは、それまでの科学的常識では決して捉えられない、自己の深淵に広がる未知の感覚世界であり、身体への絶大なリラクゼーションだったのです。


日本では以前は神戸にもあったようだが、現在は東京のECCOリラクゼーション・サロンでのみ体験可能のよう。
ストレス過大は不眠症を伴う場合があるので、眠れない人は一度試してみるのも手かも!?

ストレス解消法
「気分転換法」と「ストレス解消法」とは混同されやすいが別モノである。

「ストレス」=刺激(ストレッサー)に対する適応反応(心身の緊張)。
一般的には「過労、重圧(プレッシャー)、悪い人間関係、不安などに対する否定的反応による精神的疲労」という意味で使われる。
完璧主義(ミスが許せない)、理想主義(must思考)、責任感(自分がやらなくちゃ)の強い人に溜まりやすい。
ストレスを溜めない為には2つの方法が考えられる。
1.ストレッサーをなくす
2.否定的反応をする思考法を変える

1.は現実問題としてなかなか難しいので、私たちに出来ることは主に2.に取り組むことだ。この2.に相当するのが本当の意味での「気分転換法」であるといえる。「プラス思考(ポジティブシンキング)」などもこれに当たるだろう。
一方、「既に溜まってしまった」ストレスを解消させること、すなわち「心身の緊張をほぐして疲労を癒すこと」が「ストレス解消法」である。

そして、三省堂提供「大辞林 第二版」によれば、「リラックス」=「精神や肉体の緊張をほぐすこと」とある。ということは、「ストレス解消法」=「リラックス法」ということだろうか?
確かにストレス解消法の代表格は、温泉、マッサージなどリラックスを目的としたものと言える。

そこで、世間一般の「気分転換法(ストレス解消法)」を振り返ってみると・・・(「気分転換法2」より抜粋)
1.体を動かす系(スポーツ、ストレッチ、など)
2.体を休める系(お風呂に入る、寝る、など)
3.心を動かす系(大声を出す、泣く、など)
4.心を休める系(音楽を聞く、自然を眺める、など)

このうち2.と4.は明らかに「リラックス法」であるから間違いなく「ストレス解消法」である。
でも一見「リラックス法」ではない1.と3.によっても確かにストレスが解消されることは経験の語るところだ。
なぜだろう?
これは、実はストレスというものは、何か特定の出来事によってだけ引き起こされるものではなくて、何もなくても常に溜まり続けているものだからである。
例えば正座をすると足が痺れる。さらにずっと続けていると足が痛くなってくる。だから私たちは正座が苦手だ。正座ではリラックス出来ない。あぐらの方が楽であり、リラックスできる・・・と思っている。
ところがリラックス出来るはずのあぐらをずっと続けてみたことはあるだろうか?
どんなにリラックスした座り方であっても、同じ姿勢を続けることは苦痛なのである。じっとしていても常に刺激は受けており、短時間では気づかない小さな刺激も長時間受け続けるとさすがに気づくというわけだ。
つまりじっとしていることもまた、心身を緊張させるというわけ。
「緊張をほぐす」のが「リラックス法」なのだから、心身を「動かす」のもまた「リラックス法」だということだ。

さて残る問題は、究極のストレス解消法は何か?ということ。
以上の考察によれば、究極のストレス解消法とは完全に心身を弛緩させてしまえばよいということになるわけだが・・・

気分転換法3
まとめると、完全に気分を転換するためには、次の二つのステップを繰り返すことによって、不快な気分の原因となる「深刻だと思い込んでいた問題」を解消していくのだということ。

ステップ1:別のことに意識を向けて、一時的に気分を変える
ステップ2:新たな気分で、嫌な気分やストレスを生み出している「対象」と向き合う

こうしたステップは、日常の小さなイライラだけでなく、いわゆるトラウマと呼ばれるようなもの(主に幼少期における心的外傷)の治療に対しても有効である。
もっともトラウマに触れると思わぬ感情の高ぶりや混乱に遭遇する場合があるので、トラウマと向き合うためには、もう少し細心の注意が必要ではあるが。

さて、この「ステップ2」において「対象」と向き合うための具体的な方法もまた、「ステップ1」ほどではないにしろいくつか開発されているわけだが、牛丼でも何でも「早い安いうまい」方がいいわけで、個人的により簡単でより効果的だと思われる方法を一つ紹介しておこう。

「それに色があるとしたら何色ですか?」
「どんな形ですか?」
「硬いですか?柔らかいですか?」
「大きさはどれくらいありますか?」
「動いてますか?どんな風に?」
「もしそれから音が出るとしたら、どんな音ですか?」

大抵感情というものはモヤモヤしていて捉えどころがない。何だかよく分からないが「なんとなく」イライラする。この「なんとなく」が何とも言えず気持ち悪い。掴みどころがないからどうすることもできないのだ。ウナギを素手で捕まえようとするようなものである。
そうしたやっかいな心の中のモヤモヤを具体化・現象化することによって捕まえやすくして、取って食ってやろうというのがこの技法のミソである。
このような観点を持つ心理療法に「フォーカシング」がある。
これはそのフォーカシングの「早い安いうまい版」といえるだろうか?
応用編としては、実際にそのイメージを取って食ってやったり、あるいは粉々に爆破させてやったり、大きく息を吹きかけて見えないくらい遠くに転がしたり、風船のように内側から破裂させたりしてみるのも面白い(この「大きく息を吹きかける」というのは深呼吸の効果もあるのでおススメだ)。

さて、「今は」その問題に対する不快度は十段階で何点くらいになりましたか?

(参考)
フォーカシングとは、ジェンドリンによって体系化された心理療法。言葉にならず、漠然としてるがゆえに理解してあげられない自分の気持ち(フェルト・センス)を静かに心で実感し、次にそのフェルト・センスにぴったりな言葉(ハンドル)を見つけ出す。そのような繰り返しの中で心を解放していく。

気分転換法2
これだけストレスの多い社会を生きている私たちだ。おそらく誰もが自分だけの気分転換法というものをそれなりに持っていると思う。
どうだろう?
まとめてみると大体以下のような具合に分類できるのではないだろうか。

1.体を動かす系(スポーツ、ストレッチ、など)
2.体を休める系(お風呂に入る、寝る、など)
3.心を動かす系(大声を出す、泣く、など)
4.心を休める系(音楽を聞く、自然を眺める、など)

これらの組み合わせや派生によって、人それぞれ、あるいはその時その場の状況に応じて、無数の気分転換法が存在する。
例えば「散歩」などは、1ともいえるし2ともいえるし4ともいえる複合的な気分転換法だ。
「旅行」などもまた同様である。

いずれにしても「気分転換」において重要だと思われていることは、「別のことに意識を向ける」ということである。
そしてそのために最も手っ取り早いのは、「現在(今まで)と違うことをする」ことだ。

結局世間において「気分転換法」と名付けられたものは全て、単純にそういうことである。その方法自体に効果があるというよりは、現在の嫌な気分やストレスを生み出している対象から離れるための方便に過ぎない。
だから何であれ、現在(今まで)と違うことをすればいい。
部屋の模様替えであろうが、髪型を変えてみることだろうが、要は何でもよいのである。
だからつまるところ「気分転換法1」のステップ1のように「いま何時だろう?」というだけでもよいということなのだが、世間の「気分転換法」では、この「ステップ1」に当てはまる事柄に対して「何が一番効果があるか」と一生懸命考えているというわけだ。ごくろうさま。
そして悲しいかな「万人に効く究極の気分転換法は無いようです・・・どうぞ自分に合った方法を見つけて下さい」という結論に至る。

ちょっと待って!
「ステップ2」を見逃してしまっているではないか。
実は、本当に重要なのはこちら「ステップ2」の方である。
だって、嫌な気分やストレスを生み出している「対象」から「逃げる」だけでは、問題が解決するはずがないじゃない?
勇気を出して対象と向き合う・・・そこに真の癒しがあるのです。

気分転換法
それにしても生きていれば、嫌なこと・不快なこと・むかつくことの何と多いことか!
嫁さんと喧嘩したから言うわけじゃないが、こんな気分の時には何をしても楽しくない。お笑い番組を観てもちっとも笑えない。せっかく感動できることがあったから分かち合って幸せな気分に浸ろうと思っていたのに、全て台無しである。
言い過ぎた、自分も悪い・・・そう思うこともあるが、こちらから謝るのは癪に障る。そんな葛藤を相手に知って欲しいと思うのか、ドアを「バタンッ!」と閉めてみたり。そんな風にしてお互い意地を張って無言のまま翌日まで持ち越してしまうと、もう最悪である。

こんな時すぐに気持ちを切り替えられれば、どんなにか素晴らしいだろう。
そこで今日は気分転換法について考えてみたい。

実は感情というものをよく観察してみれば、嫌な気分がずっと続いているわけではない。「他のことを考えている時は嫌な気分は起こっていない」のだ。ただ、嫌な気分の印象があまりにも強いためにそのことに気づかないでいるうちに、また嫌な出来事を思い出してしまい、嫌な感情が続いているような「錯覚」におちいってしまうというわけ。本当は「嫌な出来事を思い出したから嫌な感情が出た」だけであって、その嫌な感情は常に単発の感情であり、最初に感じたあの嫌な感情とは「全くの別物」なのである。

この事実を理解するために、たとえばこんな質問を自分にしてみるといい。
ステップ1:「いま何時だろう?」

時計に意識が向いた瞬間、嫌な感情はいったん断ち切られた。
次に無意識に嫌な出来事を思い出してしまう前に、冷静に嫌な感情を評価してみよう。
ステップ2:「一体この出来事の不快度は十段階で何点くらいだろう?」

そんなことを考えているうちに、きっとまた嫌な感情がふつふつと沸き上がってきたことだろう。またステップ1に戻って断ち切ってみる。今度はこんな質問にしてみようか。
ステップ1(別バージョン):「今日は何色のパンツをはいていたっけ?」(エロ親父?)

そして改めてステップ2をしてみると・・・
どうだっただろうか?感情とは不思議なものである。
さあ、冷静になったらこちらから謝っちゃいましょー。これで解決♪

ある男の至高体験10 ~決心~
その頃私は何か自分で起業したい、日本に新しいムーブメントを起こしたい、そう思っていた。
思っているだけでは何も始まらないので、取り敢えず会社を辞めた。石橋を叩いて渡るA型の私にしては随分軽率であったなぁと思うし、今どきの若者は・・・などと周りは呆れ返っていたことだろう。
でも人生を変えようと思ったら、どこかで思い切った「バカ」をしなくてはいけないこともある。私にとっては大企業のエリートという線路を走る列車から飛び降りたこの時がそうであった。
とはいえ、やはりA型のはしくれなので(心理学においては血液型性格判断には根拠がないと言われているが・・・)、全く考えなしに思い付きで辞めたというわけではない。
実は就職前からそのことは考えていたので、最初から3年社会で経験を積んだら会社を辞めようと心に決めていたし、その間に会社に内緒で副業を手掛けてみたり、前述の産業カウンセラーの講習を受けたり、人脈を広げようと異業種交流会に顔を出したり、そこで知り合った数人で社会人サークルを立ち上げたりと、せこせこやってはいた。
ただ、会社で学んだ技術を生かして独立、というスタイルではなく、私の興味・やりたいことのイメージは全く違う分野にあったので、退職時点での生計のあては全くといっていいほど無かった。
しかし当初の予定は3年間だったのだ。その間に準備は整わなかったが、準備が出来たら辞めようでは、いつになっても辞められまい。「いつか」やろうでは、その「いつか」は一生来ない。
「やるなら今しかねぇ!(長渕風)」

余談であるが、カウンセラーになりたいと思っている人、あるいは仕事や趣味で何かの技術を学び、将来はそれを人に教えられるようになりたい、教室を開いて先生になれたらいいなぁなどと考えている人、そんな人達に是非私から伝えたいことがある。
「今すぐやってみなさい!」
当然、まだまだ人に教えられる、お金を取れるレベルではないだろう。普通であれば「完全に習得してから」「自信が付いてから」と考えると思う。
けれども実はほとんどの場合「やらなければ完全に習得できない、自信が付かない」のである。だから完全に習得してから、自信が付いてからやろうと思っているならば、一生やれる日は来ないのだ。
人と接する技術である「カウンセリング」ならば尚更である。またその他の技術であっても「人に教えること」によって「逆に教えられること、学べること」というものは想像以上に大きい。
このことは「子育て」を経験した方なら分かるのではないか。子供を育てることによって逆に子供から教えられることがなんと多いことかと実感されている方は多いはずだ。教育論を修めた学者先生よりも、子供を何人も生み育てた肝っ玉母さんの方がよっぽど優れた教育者たりえる。とはいえ子供(精神的)が子供を生まないで欲しいとは切に思うのであるが・・・(ちなみに私の考える結婚適齢期はモラトリアム期がさすがに終わるであろう30歳)

(参考)
心理学者エリクソンのライフサイクル論において、青年はアイデンティティ形成と社会的・人格的成熟を目指す(自分は何ものであるか、自分はどこにどう立ち、これからどういう役割と目標に向かって歩いていこうとするのか)ために社会への義務と責任の猶予期間を要するとして、自己を模索する青年期のことを「心理社会的モラトリアム」と呼んだ。通常は20代前半までと考えられるが、現代ではいつまでもモラトリアムを卒業できず、青年期が引き延ばされている現象が見られる。

幸せ処方箋:ブスは美人よりお得!?
ブスと美人はどっちがモテるか?といえば、これは明らかに美人でしょう。
ブスと美人はどっちがお得か?といえば、これも美人に軍配が上がりそう。美人な女性が、男性からちやほやされたりおごってもらったり貢いでもらったりというのはよく聞く話。ディスコやクラブに無料で入れたりするのもよく目撃した光景だ。またデートに誘われていろいろな場所に行けたり、セックスの機会も多いだろうからいわゆる女の快感も多く味わえる。それが女性ホルモンを促してさらに綺麗になってゆく。やはり美人がお得と言えそうだ。

ところが、ブスと美人はどっちがより幸せになれるか?となると話が違ってくるかもしれない。
「幸せを感じるのはどんなとき?」のアンケート結果を眺めてみても、「大好きな人と一緒に過ごすとき」はあるが「モテているとき」というのはないようだ。つまり幸せであるためには大勢の恋人は必要ない。一人の恋人がいれば事足りるのである。
でも、モテる方が素敵な恋人を見つけやすいのでは?と思うかもしれない。しかし女性に積極的にアプローチする男というのは(私も含めて)軽薄な遊び人タイプが圧倒的だろうと思う。だから美人のところには遊び人が先に手を出してくるから、彼らが壁となり、真面目で純真ないわゆる「いい人」は近づけないのである。
この傾向は特に学生時代には顕著に見られる。そういえば私の片想いの女の子もヤンキーと付き合っていたなぁ(この頃の私はまだ奥手であった)。
こういった理由から、ブスの方が、自分のことだけを見てくれる「いい人」と付き合える可能性が高いといえるのだ!
(ちなみにヤンキーや遊び人と付き合ったら幸せになれないと言っているわけではない。少なくとも遊び人の私と結婚した嫁さんはいまのところ幸せそうではある。いやきっと幸せに違いない。そう信じたい(笑))

問題は、「私はどうせブスだから恋人も出来ないし幸せになれないのよ」という間違った思考にある。
電車にでも乗って世間をよくよく眺めてみれば、ブスでもデブでもほとんどの人が結婚しているではないか。
学生時代は私よりモテていたイケメン二人も、一般的基準からすれば「ブス」と「デブ」とそれぞれ結婚した。仲間内では「なんで~?」と皆で驚いたものである。
「好み」というのは不思議なもので、それにしても世の中うまく出来ているもんだと感嘆せずにはいられない。あるいは強力な「種の保存の法則」のお蔭であろうか。ダーウィンに感謝である。
また男女逆ではあるが、私の友人に身長160センチの「チビ男くん」と体重100キロ超の「デブ男くん」がいる。一般的認識ではモテないくんの部類である。ところが現実とは摩訶不思議なり。
彼らのモテる秘訣は「明るさとユーモア」だと思われる。そしてそれを支えているのが「俺がモテないはずがない」という根拠のない自信だ。自尊心だ。
自分のことを好きだと思えるかどうか。ココがポイントである。

では、どうすれば自分のことを好きになれるのか?
単純ではあるが、毎朝「私は自分が大好きだぁ~!!」と叫ぶのも効果がある。これはくだらないように見えるが「アファメーション(肯定的な断言)」と呼ばれるれっきとした心理学の技法だ。
こうした一見馬鹿げたことを繰り返していると、自然と自分の良いところはおろか他人の良いところまで見えてくるようになるから不思議である。
自尊心を高める方法は他にもいろいろあるが、幸せになるための方法をいくつ知っているかよりも、一つしか知らなくてもその方法を「実践したかどうか」こそが幸せの秘訣。
早速今日から、世界の中心で愛を叫ぼう!!

タロットと魔術
タロット理論の発展において、最も重要な貢献を果たした人物が、19世紀最大の魔術師エリファス・レヴィ(本名アルフォンス=ルイ・コンスタン)である。

開闢紀元1613年、2月24日から、「水星」の天使、学術と言葉の天使、知性と勤労の天使ラファエルの統治が始まる。文字が発明されたのもこの頃である。最初の言語は象形文字を用いた世界共通の文字で、その今日まで残されている記念碑が、エノク、カドモス、トート、パラメデスらの書物、ソロモンが後に取り上げた「カバラ」の小鍵、テラフィム、ウリム、トゥミムらの神秘的書物、『光輝の書(ゾハール)』、ギョーム・ポステルの原初的『創世記』、エゼキエルの不可思議な輪、カバリストたちの「車輪(ロタ)」、魔術師やジプシーたちの間で用いられる「タロット・カード」である。

一冊の本も与えられずに牢屋の中に閉じ込められても、たまたま「タロット」を持ち合わせていて、そしてその使い方を心得てさえいたならば、数年のうちに彼は、宇宙全般にまたがる知識を手に入れて、万事にかんして比類ない理論と尽きない雄弁をもって語れるようになるであろう。


彼の著書『高等魔術の教理と祭儀』の及ぼした影響はタロットだけにとどまらない。ボードレールやランボー、イェイツ、バタイユをはじめとして思想・文学・芸術にまでその影響は広まった。

「魔術」というとテレビゲームの世界の話?と思う人も、また、うさんくさい中世ヨーロッパの非科学的オカルト・迷信であるように思う人もいるかも知れないが、当時においてはそんなにも科学とかけ離れたものであったわけではない。
魔術がたかだか百年ほど前までは当たり前のように研究されていたというのは新鮮な驚きであると同時に、現代の物質偏重を嘆きたくもなる。それとも量子力学あたりが新たな現代魔術の礎となるのだろうか?
20世紀最大の魔術師アレイスター・クロウリーの魔術の定義はこうである。
「意志に従って変化を起こす科学であり技である」

その源流となるのが、18世紀の医学者メスメルの提唱した「動物磁気」である。
宇宙全体に「動物磁気」と名付けられる測定できない微細なエネルギーが浸透しており、すべての事物に対して生命力を与えている源であり、人間の健康も左右している。よって人体の中に浸透しているこのエネルギーを調整することで、あらゆる病を治すことができる。動物磁気は宇宙の星の動きに対応するので、人間の健康を回復するポイントは宇宙のあり方と調和した適切な配置へと催眠によって動物磁気を導くことにあると主張した。
こうした考えに基づくメスメリズムは、当時のパリでは非常に多くの人たちに受け入れられた。
その後メスメリズムは、一方では催眠理論など生理学的メカニズムの研究として抽出され、フロイトの精神分析学へと引き継がれる。
もう一方では心霊主義と結びつき、動物磁気は「星幽光(アストラル・ライト)」という形でレヴィの近代魔術理論としてまとめられていくのである。
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