人は何の為に生まれ何の為に生きるのだろう……僕とあなたの生きる道。   幸せの秘密を知りたい人は「青い鳥」を、悟りの平安を知りたい人は「黄金の果実」を探してみて下さい。「映画」はネタバレ有、ご注意を。

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悟りと菜食主義
少食ベジタリアンのメリットを挙げてみる。

・健康増進(生活習慣病予防)
・快便(内臓負担減で機能回復)
・ダイエット(低脂肪、宿便排出)
・動物愛護(不殺生)
・自然環境への配慮(森林保護、Co2軽減)
・食糧問題の解決(タンパク質効率1/20)

参考:日本ベジタリアン協会 http://www.jpvs.org/

ところで古今東西の修行者達は、断食・少食(厳格な仏道修行者は午後に食事を取らない…仏教の八戒の一つ)をしたり、精進料理などといって肉魚を食しなかったり(不殺生戒…仏教の五戒の一つ、キリストの教えにもある)してきた。
これは戒律を守り心身を清浄に保つ為(断食には不浄な肉体から厭離し清浄な精神を解き放つという意味もあるが)というのが大きな理由の一つであると思われる。
ところが生理学的観点から見ると、興味深い事実が浮かび上がるのだ。

菜食は低脂肪低コレステロールであり、またファイトケミカルという抗酸化成分が多く含まれている為、血液のアルカリ化(アルカローシス)が起こる。
これが成人病予防の秘密であり身体の軽快感清浄感の理由であるが、なんと身体のみならず精神安定にも効果があるという。
というのも、このアルカローシスが脳波の徐波化を促進させるのだそうだ。
すなわち通常意識の波長であるベータ波からアルファ波やシータ波へと近づいていく。
これらの脳波は睡眠時や深いリラックス状態、瞑想時の波長として知られており、変成意識(神秘体験・至高体験)の前提条件でもある。
つまりベジタリアンは常に瞑想状態で生きているというわけだ、ブラボー!

ベジタリアンはのんびりというイメージがあったが(草食動物のイメージなのか?)、なるほど納得である。
ただ、なんともガリバー旅行記の天空の島が思い出されて大丈夫かぁ?と心配にもなるが、実際のところはあの元短距離走世界王者のカールルイスもベジタリアンだっていうから、全く動けなくなってしまわないかという不安は杞憂である。
そんな訳で日本のお坊さま方も焼肉や寿司は少し控えてみませんか?
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ベジタリアン
将来はベジタリアンになろう、と以前から思っていたのであるが、「いますぐやれ!」と人に言っている私が「いつかは」なんて呑気なことを言っていても仕方がないので、昨日の夜から少食(しょうじき)ベジタリアンの実践を始めてみることにした。
ボリボリとキュウリやキャベツをかじっていると、成程思った以上に腹がふくれるものだ。
もともと食に関してはあまり欲がなく、「一番好きな食べ物は?」「たまご」と答えるような安上がりな人間なので、こりゃ意外と簡単に移行できるかな?
たまごが食べられなくなるのはイタイが…例外作ってよかですか?

ベジタリアンというと健康の為に「野菜しか食べない人」というイメージがあるが、本来は「生き物を殺さない人」という意味である。
だから野菜の中でも、ジャガイモなどの一つの種から複数個育つ植物から少しだけいのちを「分けてもらう」という形をとる。
従って、野菜であっても一つの種から一つしか出来ないようなものは食べないし、逆に野菜以外の穀物・果実・豆類などでも条件に合えば食べることが出来る。

まぁ、最初からあまりキバっても続かないので、だんだん慣らしてゆこうと思う。

ところで、私は普段からなるべく肉は食べないようにしていて、魚と野菜中心の生活だったのであるが、私の実感によると、肉を食べないことの最大の効用は、なんといっても「オナラが臭くない!」ことに尽きる。
エレベータの中でも安心してすかしっ屁が出来ることほど素晴らしいことがこの世にあろうか!
まさに特権階級なのである。

ある男の至高体験11 ~夢見~
会社を辞めた当初は留学するつもりでいた。
なぜなら欧米かぶれの日本人には欧米文化の輸入が一番手っ取り早い商売になると思ったからだ。

欧米かぶれと言えば「英国式リフレクソロジー」なんてほとんど笑い話である。当時単なるOLだったH氏。趣味で学んだリフレクソロジー(足裏反射区マッサージ)を日本で広めたいと思い立ち、日本人受けしそうな格調高いおしゃれなイメージのネーミングをと考え、イギリスとは全く関係ないのに勝手に付けちゃったんだとか。
それをありがたがってか大流行。先日店に行ったらなんと4時間待ちだとさ。いやはや。
もちろんネーミングだけで流行ったわけではないでしょうけどね。

話は逸れるが、こないだH氏がテレビに出てた。立派な経営者だった。これが数年前までは単なるOLだったとは思えない。
う~ん、立場は人を変えるなぁ。「らしさ」が自然に出てくる。

あと欧米文化の輸入で成功した例は、ネイルアートとかあるね。
まだまだ他にも、例えば心理学の分野を見れば腐るほどある。
カウンセリング、ユング心理学、マーフィーやらナポレオン・ヒルやらの成功哲学、ニューエイジ、エニアグラム、コーチングなどなど。
日本の心理学は10年遅れていると言われていたから、アメリカの最新心理学を学んで日本に帰ってくれば、誰でも第一人者だ。
そして講演活動、スクール開講で大儲け。

そんな目論見で、アメリカの大学のレポートを取り寄せて最新講座をチェックしたり、心理学の基礎を学んだりした。
そんな中で受けたトランスパーソナル心理学の勉強会はなかなか刺激的だった。超心理学(オカルトや超能力など)の教授とか面白い人たちが毎回講義してくれるのだが、中でもユング心理学の女教授の神秘体験談が強く心に残った。
大学時代はほとんど授業をさぼって遊び呆けていたので、あまり教授とかと話をするのは慣れてなかったのだが、とても興味深い話に感銘を受けたので勇気を出して声を掛けてみた。

「あ、あのぅ、今度留学しようと思っているんですけどぉ」

オイオイ突然そんなこと言われても先生困っているジャナイカ。
まずは授業の感想でも言うのが筋だろうに・・・私はアホか。

スター・ウォーズ エピソード3/シスの復讐(2005年)
遠い昔、遥か彼方の銀河系で・・・で始まるスターウォーズ全六部作の完結編。銀河にあまねく平和をもたらす唯一の人間、“選ばれし者”と予言されたアナキン・スカイウォーカーが、銀河皇帝の右腕、恐怖の権化のごときダース・ベイダーに成り果てたのは、なぜか?

「あなたのためならたとえ火の中水の中。全世界を敵にまわしたとしても僕はあなたを愛してる!」
ちょっとクサイと思いながらも、内心一度は言われてみたい甘美な愛の代表的な台詞。
けれども本当にその通りになってしまったとしたら?
「愛」は諸刃の剣。
パドメへの愛のためにフォース(=愛)の暗黒面に落ちていくアナキンの姿は、まさに愛の二面性の象徴である。
数日前まで愛し合っていたはずの元恋人が一転ストーカーに変身したり、さらには「かわいさ余って憎さ百倍」殺人にまで発展してしまう・・・決して他人事ではない話だ。
愛とは一体何だろう?

2500年も昔に、愛とは愛執、すなわち自己中心性の源である執着であり、苦しみ悩みを生み出す唯一の原因であると看破され、愛から離れよと説いた賢人がいた。
一方2000年前には、愛こそ全て、汝愛せよと説いた聖人がいた。
どちらかが正しくどちらかが間違っているのだろうか?
いや、そうではない。
私たちは本当の愛を知らないのである。

「あなたのことを想って言っているのよ」というアナキン的な愛は、お節介なだけだ。小さな親切大きなお世話ってやつだ。はっきり言って迷惑だ。
それはパドメの結末がそうであったように、人を追いつめ生きる力を失わせてしまう偽りの愛だ。愛執だ。
本当の愛とは生きる力だ。
誰もが心の奥底で叫んでいる。「ワタシヲミテ」「ワタシハココニイルヨ」と叫んでいる。
その想いを受け止めてあげること・・・それが愛するということ。

電車男(2005年)
電車内で絡む酔っ払いから女性を助けた、ひとりのアキバ系ヲタ青年。彼女いない歴=年齢の彼は、助けたお礼を送ってくれた彼女をデートに誘うべく、モテない独身男達が集うネットの掲示板に助けを求める。「電車男」は果たして彼女に告白できるのか? 

原作(まとめサイト)を既に読んでいて内容を知っていた為、ほとんど期待していなかったのだが(読んだ時には不覚にも泣いてしまったのだけれども)、映画も人生も期待しないでいる方が大概感動を味わえるようだ。
思い返せば、人から「最高!」「泣ける!」と聞かされて観た映画(「タイタニック」「ショーシャンクの空に」「ライフ・イズ・ビューティフル」など)はどれも泣けなかった。単なる天邪鬼?

「努力、友情、勝利」という、まるで少年ジャンプのような単純明快なストーリー。
だが、人生とはえてしてそんなものである。振り返ってみれば単純明快。
「そうか、そういうことだったのか!」で解決なのです。
それを複雑にしているのは自分自身。妄想膨らむ頭の中。結果を気にして試行錯誤。
だけど結局人生を変えることの出来るのは、いつだって最初の第一歩を踏み出す小さな「勇気」だけなんだね。
そして、その勇気を与えてくれるのは・・・

「忘れるな、お前には俺たちがついている!」 

自分という名の鳥かご

アインシュタイン
「人間の真の価値は、おもに自己からの解放の度合いによって決まる」

『アインシュタイン150の言葉』


「相対性理論」でそれまでの時空の常識(固定観念)を打ち破った20世紀の天才科学者(彼自身は「私は天才ではない。ただ人より長く問題とつき合っているだけだ」などと言っていますが)。
彼の言葉を見ていると、「科学と宗教は対立する」などという一般常識なんぞ恥ずかしくて口に出来なくなってくる。
一つのことに真に打ち込んだ者には自ずと宗教的な眼が開かれてくるのだろう。

「自己からの解放」というのは、分かりやすく言えば「自己中心性からの脱却」だ。
日常的な観点においても「自己中」な人は嫌われるわけであるから、これは誰しも納得できるかと思う。
だが、実際は「自己実現の妙」で触れた言葉たちと同じことを言っている大変宗教的な言葉なのです。
つまり「自己中」というのは、あの人は自己中であの人は自己中でないというような性格の問題ではなくて、人間であれば誰しも抱えている本能だということ。
だから「自分はさほど自己中ではないかなぁ?」なんて思っている人は、おそらく日常では比較的いい人なのかもしれないが、宗教的には重症である。
浄土真宗の親鸞は説いた。自分の自己中に気づいて深く悩む者(=悪人)こそが救われるのだと(悪人正機)。
「私はこのような人間である」「善人であるためには~すべきだ」などと、自己という名の鳥かごに閉じ込められていることに早く気づいて、広大自由な大空へとはばたけ! 

自己実現の妙

アラン(フランスの思想家)
「人は自分から抜けだすほど、一層自分となる。また一層よく自分の生きていることを感ずる。薪を穴倉の中でくさらせてしまってはならぬ」

『幸福論』


一時期「本当の自分探し」というフレーズが大流行したが、あの頃本当の自分に出会えた人間は一体どのくらいいたのだろうか?
自分とは何者であるか?本当は何がしたいのか?と探せば探すほど、今の私は本当の私じゃない!?などと、私たちは自分から遠く離れていく。
何をしようと「私は私」であるというのに・・・。
自分の全存在(いのち)をかけて一所懸命に生き抜くとき、それを「私らしくない」「あなたらしくない」などと否定できるものがどこにいようか。

道元禅師曰く「心身脱落 脱落心身」・・・私を無くした状態(何かを為すべき「私が有る」のではなく、ただ「私で在る」こと)こそが本当の私であると。

またハイデガーはこう語る。
私たちは否応なしにこの世界へと投げ出された無意味な存在(被投性)であるが、だからこそそこで主体性を持って、自分で自分を世界の中へ投げ入れる(投企)ことによって、存在と自由の真の意味が得られるのであると。 

リラクゼーションと癒し
「ストレス解消法2」では、主に「身体の弛緩」=「リラクゼーション」に目を向けてみたが、一転「心の弛緩」へと目を向ければ、それは「癒し」と呼ばれる。

目に見えないこの「心の弛緩」とは一体どんなものなのかを考えてみるにあたって、まず私たちはどんな時に「癒されたぁ~」と感じるのかを見てみよう。
2002年12月に実施した富山大学の大学生を対象に行ったアンケート調査によれば、「安心感・安らぎを感じたとき」とする人が70%、「心の疲れがとれたと感じるとき」とする人が55%という結果であったそうだ。
心の疲れといっても、「心」というのは概念であって物質ではないから、実際に「心」が疲れるわけではない。
緊張感・気が張っている状態(=不安)が解決されて安心感・安らぎを感じている状態になったことを「心の疲れがとれた」と表現しているわけであるから、両者は同じことを言っていると考えられる。

私たちの心に不安があるときには、筋肉と同じように心もギューっと縮こまって硬くなっている。
ダンゴムシや亀やアルマジロを見れば分かるように「自分を守ろう守ろう」としているわけだ。
そうすると自分を守ることが出来る代わりに(いやむしろ突破され、結果ズタボロになることの方が多いわけだが・・・)周りが見えなくなってしまう。そして物事や人の意見を受け入れることが出来ない。ちょっとしたことにイライラしたり、必要もないのに怒鳴ったりして威嚇する。まるで心はハリセンボンのようにトゲトゲになっている。
「気分転換法3」の方法を使うとそんな「心」がよく観察できるはずだ。

ところで、癒し系女優といえば「井川遥」であろうか。癒し系キャラクターといえば「たれぱんだ」などが思いつく。どちらも鋭い知性やちゃきちゃきした活動的な感じではなく、ほんわかのんびりした天然系のゆる~い感じ。
また、小動物やちっちゃい子を見ていると癒されるという人は多いはずだ。
逆に大型肉食獣に癒される人はほとんどいないだろう。なぜなら彼らを目の前にして癒されていたら、それは即死を意味するのだから。

つまり、私たちが癒される対象は、どれも自分より弱い存在。自分が脅かされない存在。
だから自分を守る必要がない。不安になる必要がない。

癒し=心の弛緩=不安の解消=自分を守る必要が無くなること

そうして不安が解消され、安心しているときには、私たちの心はスポンジのように柔らかくなっていて、その時には物事や人の意見を受け入れる、スーっと吸収することができる。
自分を守る必要がなければ人と争う必要もなくなるのだ。
そして逆説的だが守ろう守ろうとしない心は傷つかない。
ピンと張った紙はよく切れるが、宙に舞っているティッシュペーパーを切ることが出来ないように。

心の平安=柔軟心=開かれた心=100%受け入れること

すると、自然と感謝の気持ちが湧いてくる。慈しみの心が芽生えてくる。何も考えずとも人の為に動ける自分がそこにいる。人生の意味がひしひしと感じられてくる。

あ~、わたしはいまここにいる!

なるほど「癒し」とは「幸せ」の道である。(このあたりの論理の飛躍は「幸福論2~幸せの本質」をご参照下さい)

ストレス解消法2
さて、究極のストレス解消法とは何だろうか?
ストレスとは刺激に対する緊張であるから、最も心身が弛緩している時が最もストレスのない状態であるといえる。
心と身体はつながっているから、どちらかを弛緩させればもう一方も自動的に弛緩する。
心は目に見えないから、ストレス解消「法」として意識的・積極的に働きかけるのならば、心を弛緩させる方法よりも身体を弛緩させる方法を考える方が分かり易いだろう。
そして、最も身体が弛緩する時・・・それは私たちが寝ている時である!

「あなたのストレス解消法は何ですか?」と聞かれて「う~ん、寝ることかな?」と答える人は結構多いと思う。みんな無意識のうちに答えを知っているんですね。
睡眠においては、入眠後1時間30分ほどの「ノンレム睡眠(脳の休息)」の後、数分から10分程度の「レム睡眠(身体の休息)」があり、一晩に4~6回このサイクルが繰り返される。
レム睡眠とは、Rapid Eye Movements(急速眼球運動)の頭文字を取ったものであるが、このレム睡眠中は、骨格筋(抗重力筋、姿勢筋)の緊張が解け、「全身弛緩状態」(でもアソコだけはなぜか硬くなっていらっしゃるらしい(笑))となり身体を動かさない。
全身弛緩状態でいられるのは、緊急情報以外の外部からの刺激が一切シャットアウトされるためである。
だからレム睡眠時は、揺さぶりおこしても目が覚めにくく、安静覚醒時の脳波であるα波に近い脳波が出される。
ちなみにどんなに揺さぶっても起きない人を何とか起こしたいと思うならば、耳元で「火事だぁー、逃げろー!」と叫んでみよう。すぐに飛び起きるはずだ。人間の身体は何ともうまく出来ているものだ。

睡眠以外で外部からの刺激を断つ方法としては、「アイソレーション(隔離)タンク」というものがある。
これは、1954年、アメリカの神経生理学者ジョン・C.リリィによって発明されたもので、五感の感覚を遮断して身体性を消去させる。

光も音も消失したカプセルの中で体温に調節された水溶液にゆったりと浮かぶこと・・・それは日常がとりまく様々なノイズからココロとカラダを完全に解き放つことを意味していました。リリィがそこで自ら体験したのは、それまでの科学的常識では決して捉えられない、自己の深淵に広がる未知の感覚世界であり、身体への絶大なリラクゼーションだったのです。


日本では以前は神戸にもあったようだが、現在は東京のECCOリラクゼーション・サロンでのみ体験可能のよう。
ストレス過大は不眠症を伴う場合があるので、眠れない人は一度試してみるのも手かも!?

ストレス解消法
「気分転換法」と「ストレス解消法」とは混同されやすいが別モノである。

「ストレス」=刺激(ストレッサー)に対する適応反応(心身の緊張)。
一般的には「過労、重圧(プレッシャー)、悪い人間関係、不安などに対する否定的反応による精神的疲労」という意味で使われる。
完璧主義(ミスが許せない)、理想主義(must思考)、責任感(自分がやらなくちゃ)の強い人に溜まりやすい。
ストレスを溜めない為には2つの方法が考えられる。
1.ストレッサーをなくす
2.否定的反応をする思考法を変える

1.は現実問題としてなかなか難しいので、私たちに出来ることは主に2.に取り組むことだ。この2.に相当するのが本当の意味での「気分転換法」であるといえる。「プラス思考(ポジティブシンキング)」などもこれに当たるだろう。
一方、「既に溜まってしまった」ストレスを解消させること、すなわち「心身の緊張をほぐして疲労を癒すこと」が「ストレス解消法」である。

そして、三省堂提供「大辞林 第二版」によれば、「リラックス」=「精神や肉体の緊張をほぐすこと」とある。ということは、「ストレス解消法」=「リラックス法」ということだろうか?
確かにストレス解消法の代表格は、温泉、マッサージなどリラックスを目的としたものと言える。

そこで、世間一般の「気分転換法(ストレス解消法)」を振り返ってみると・・・(「気分転換法2」より抜粋)
1.体を動かす系(スポーツ、ストレッチ、など)
2.体を休める系(お風呂に入る、寝る、など)
3.心を動かす系(大声を出す、泣く、など)
4.心を休める系(音楽を聞く、自然を眺める、など)

このうち2.と4.は明らかに「リラックス法」であるから間違いなく「ストレス解消法」である。
でも一見「リラックス法」ではない1.と3.によっても確かにストレスが解消されることは経験の語るところだ。
なぜだろう?
これは、実はストレスというものは、何か特定の出来事によってだけ引き起こされるものではなくて、何もなくても常に溜まり続けているものだからである。
例えば正座をすると足が痺れる。さらにずっと続けていると足が痛くなってくる。だから私たちは正座が苦手だ。正座ではリラックス出来ない。あぐらの方が楽であり、リラックスできる・・・と思っている。
ところがリラックス出来るはずのあぐらをずっと続けてみたことはあるだろうか?
どんなにリラックスした座り方であっても、同じ姿勢を続けることは苦痛なのである。じっとしていても常に刺激は受けており、短時間では気づかない小さな刺激も長時間受け続けるとさすがに気づくというわけだ。
つまりじっとしていることもまた、心身を緊張させるというわけ。
「緊張をほぐす」のが「リラックス法」なのだから、心身を「動かす」のもまた「リラックス法」だということだ。

さて残る問題は、究極のストレス解消法は何か?ということ。
以上の考察によれば、究極のストレス解消法とは完全に心身を弛緩させてしまえばよいということになるわけだが・・・

気分転換法3
まとめると、完全に気分を転換するためには、次の二つのステップを繰り返すことによって、不快な気分の原因となる「深刻だと思い込んでいた問題」を解消していくのだということ。

ステップ1:別のことに意識を向けて、一時的に気分を変える
ステップ2:新たな気分で、嫌な気分やストレスを生み出している「対象」と向き合う

こうしたステップは、日常の小さなイライラだけでなく、いわゆるトラウマと呼ばれるようなもの(主に幼少期における心的外傷)の治療に対しても有効である。
もっともトラウマに触れると思わぬ感情の高ぶりや混乱に遭遇する場合があるので、トラウマと向き合うためには、もう少し細心の注意が必要ではあるが。

さて、この「ステップ2」において「対象」と向き合うための具体的な方法もまた、「ステップ1」ほどではないにしろいくつか開発されているわけだが、牛丼でも何でも「早い安いうまい」方がいいわけで、個人的により簡単でより効果的だと思われる方法を一つ紹介しておこう。

「それに色があるとしたら何色ですか?」
「どんな形ですか?」
「硬いですか?柔らかいですか?」
「大きさはどれくらいありますか?」
「動いてますか?どんな風に?」
「もしそれから音が出るとしたら、どんな音ですか?」

大抵感情というものはモヤモヤしていて捉えどころがない。何だかよく分からないが「なんとなく」イライラする。この「なんとなく」が何とも言えず気持ち悪い。掴みどころがないからどうすることもできないのだ。ウナギを素手で捕まえようとするようなものである。
そうしたやっかいな心の中のモヤモヤを具体化・現象化することによって捕まえやすくして、取って食ってやろうというのがこの技法のミソである。
このような観点を持つ心理療法に「フォーカシング」がある。
これはそのフォーカシングの「早い安いうまい版」といえるだろうか?
応用編としては、実際にそのイメージを取って食ってやったり、あるいは粉々に爆破させてやったり、大きく息を吹きかけて見えないくらい遠くに転がしたり、風船のように内側から破裂させたりしてみるのも面白い(この「大きく息を吹きかける」というのは深呼吸の効果もあるのでおススメだ)。

さて、「今は」その問題に対する不快度は十段階で何点くらいになりましたか?

(参考)
フォーカシングとは、ジェンドリンによって体系化された心理療法。言葉にならず、漠然としてるがゆえに理解してあげられない自分の気持ち(フェルト・センス)を静かに心で実感し、次にそのフェルト・センスにぴったりな言葉(ハンドル)を見つけ出す。そのような繰り返しの中で心を解放していく。

気分転換法2
これだけストレスの多い社会を生きている私たちだ。おそらく誰もが自分だけの気分転換法というものをそれなりに持っていると思う。
どうだろう?
まとめてみると大体以下のような具合に分類できるのではないだろうか。

1.体を動かす系(スポーツ、ストレッチ、など)
2.体を休める系(お風呂に入る、寝る、など)
3.心を動かす系(大声を出す、泣く、など)
4.心を休める系(音楽を聞く、自然を眺める、など)

これらの組み合わせや派生によって、人それぞれ、あるいはその時その場の状況に応じて、無数の気分転換法が存在する。
例えば「散歩」などは、1ともいえるし2ともいえるし4ともいえる複合的な気分転換法だ。
「旅行」などもまた同様である。

いずれにしても「気分転換」において重要だと思われていることは、「別のことに意識を向ける」ということである。
そしてそのために最も手っ取り早いのは、「現在(今まで)と違うことをする」ことだ。

結局世間において「気分転換法」と名付けられたものは全て、単純にそういうことである。その方法自体に効果があるというよりは、現在の嫌な気分やストレスを生み出している対象から離れるための方便に過ぎない。
だから何であれ、現在(今まで)と違うことをすればいい。
部屋の模様替えであろうが、髪型を変えてみることだろうが、要は何でもよいのである。
だからつまるところ「気分転換法1」のステップ1のように「いま何時だろう?」というだけでもよいということなのだが、世間の「気分転換法」では、この「ステップ1」に当てはまる事柄に対して「何が一番効果があるか」と一生懸命考えているというわけだ。ごくろうさま。
そして悲しいかな「万人に効く究極の気分転換法は無いようです・・・どうぞ自分に合った方法を見つけて下さい」という結論に至る。

ちょっと待って!
「ステップ2」を見逃してしまっているではないか。
実は、本当に重要なのはこちら「ステップ2」の方である。
だって、嫌な気分やストレスを生み出している「対象」から「逃げる」だけでは、問題が解決するはずがないじゃない?
勇気を出して対象と向き合う・・・そこに真の癒しがあるのです。

気分転換法
それにしても生きていれば、嫌なこと・不快なこと・むかつくことの何と多いことか!
嫁さんと喧嘩したから言うわけじゃないが、こんな気分の時には何をしても楽しくない。お笑い番組を観てもちっとも笑えない。せっかく感動できることがあったから分かち合って幸せな気分に浸ろうと思っていたのに、全て台無しである。
言い過ぎた、自分も悪い・・・そう思うこともあるが、こちらから謝るのは癪に障る。そんな葛藤を相手に知って欲しいと思うのか、ドアを「バタンッ!」と閉めてみたり。そんな風にしてお互い意地を張って無言のまま翌日まで持ち越してしまうと、もう最悪である。

こんな時すぐに気持ちを切り替えられれば、どんなにか素晴らしいだろう。
そこで今日は気分転換法について考えてみたい。

実は感情というものをよく観察してみれば、嫌な気分がずっと続いているわけではない。「他のことを考えている時は嫌な気分は起こっていない」のだ。ただ、嫌な気分の印象があまりにも強いためにそのことに気づかないでいるうちに、また嫌な出来事を思い出してしまい、嫌な感情が続いているような「錯覚」におちいってしまうというわけ。本当は「嫌な出来事を思い出したから嫌な感情が出た」だけであって、その嫌な感情は常に単発の感情であり、最初に感じたあの嫌な感情とは「全くの別物」なのである。

この事実を理解するために、たとえばこんな質問を自分にしてみるといい。
ステップ1:「いま何時だろう?」

時計に意識が向いた瞬間、嫌な感情はいったん断ち切られた。
次に無意識に嫌な出来事を思い出してしまう前に、冷静に嫌な感情を評価してみよう。
ステップ2:「一体この出来事の不快度は十段階で何点くらいだろう?」

そんなことを考えているうちに、きっとまた嫌な感情がふつふつと沸き上がってきたことだろう。またステップ1に戻って断ち切ってみる。今度はこんな質問にしてみようか。
ステップ1(別バージョン):「今日は何色のパンツをはいていたっけ?」(エロ親父?)

そして改めてステップ2をしてみると・・・
どうだっただろうか?感情とは不思議なものである。
さあ、冷静になったらこちらから謝っちゃいましょー。これで解決♪

ある男の至高体験10 ~決心~
その頃私は何か自分で起業したい、日本に新しいムーブメントを起こしたい、そう思っていた。
思っているだけでは何も始まらないので、取り敢えず会社を辞めた。石橋を叩いて渡るA型の私にしては随分軽率であったなぁと思うし、今どきの若者は・・・などと周りは呆れ返っていたことだろう。
でも人生を変えようと思ったら、どこかで思い切った「バカ」をしなくてはいけないこともある。私にとっては大企業のエリートという線路を走る列車から飛び降りたこの時がそうであった。
とはいえ、やはりA型のはしくれなので(心理学においては血液型性格判断には根拠がないと言われているが・・・)、全く考えなしに思い付きで辞めたというわけではない。
実は就職前からそのことは考えていたので、最初から3年社会で経験を積んだら会社を辞めようと心に決めていたし、その間に会社に内緒で副業を手掛けてみたり、前述の産業カウンセラーの講習を受けたり、人脈を広げようと異業種交流会に顔を出したり、そこで知り合った数人で社会人サークルを立ち上げたりと、せこせこやってはいた。
ただ、会社で学んだ技術を生かして独立、というスタイルではなく、私の興味・やりたいことのイメージは全く違う分野にあったので、退職時点での生計のあては全くといっていいほど無かった。
しかし当初の予定は3年間だったのだ。その間に準備は整わなかったが、準備が出来たら辞めようでは、いつになっても辞められまい。「いつか」やろうでは、その「いつか」は一生来ない。
「やるなら今しかねぇ!(長渕風)」

余談であるが、カウンセラーになりたいと思っている人、あるいは仕事や趣味で何かの技術を学び、将来はそれを人に教えられるようになりたい、教室を開いて先生になれたらいいなぁなどと考えている人、そんな人達に是非私から伝えたいことがある。
「今すぐやってみなさい!」
当然、まだまだ人に教えられる、お金を取れるレベルではないだろう。普通であれば「完全に習得してから」「自信が付いてから」と考えると思う。
けれども実はほとんどの場合「やらなければ完全に習得できない、自信が付かない」のである。だから完全に習得してから、自信が付いてからやろうと思っているならば、一生やれる日は来ないのだ。
人と接する技術である「カウンセリング」ならば尚更である。またその他の技術であっても「人に教えること」によって「逆に教えられること、学べること」というものは想像以上に大きい。
このことは「子育て」を経験した方なら分かるのではないか。子供を育てることによって逆に子供から教えられることがなんと多いことかと実感されている方は多いはずだ。教育論を修めた学者先生よりも、子供を何人も生み育てた肝っ玉母さんの方がよっぽど優れた教育者たりえる。とはいえ子供(精神的)が子供を生まないで欲しいとは切に思うのであるが・・・(ちなみに私の考える結婚適齢期はモラトリアム期がさすがに終わるであろう30歳)

(参考)
心理学者エリクソンのライフサイクル論において、青年はアイデンティティ形成と社会的・人格的成熟を目指す(自分は何ものであるか、自分はどこにどう立ち、これからどういう役割と目標に向かって歩いていこうとするのか)ために社会への義務と責任の猶予期間を要するとして、自己を模索する青年期のことを「心理社会的モラトリアム」と呼んだ。通常は20代前半までと考えられるが、現代ではいつまでもモラトリアムを卒業できず、青年期が引き延ばされている現象が見られる。

幸せ処方箋:ブスは美人よりお得!?
ブスと美人はどっちがモテるか?といえば、これは明らかに美人でしょう。
ブスと美人はどっちがお得か?といえば、これも美人に軍配が上がりそう。美人な女性が、男性からちやほやされたりおごってもらったり貢いでもらったりというのはよく聞く話。ディスコやクラブに無料で入れたりするのもよく目撃した光景だ。またデートに誘われていろいろな場所に行けたり、セックスの機会も多いだろうからいわゆる女の快感も多く味わえる。それが女性ホルモンを促してさらに綺麗になってゆく。やはり美人がお得と言えそうだ。

ところが、ブスと美人はどっちがより幸せになれるか?となると話が違ってくるかもしれない。
「幸せを感じるのはどんなとき?」のアンケート結果を眺めてみても、「大好きな人と一緒に過ごすとき」はあるが「モテているとき」というのはないようだ。つまり幸せであるためには大勢の恋人は必要ない。一人の恋人がいれば事足りるのである。
でも、モテる方が素敵な恋人を見つけやすいのでは?と思うかもしれない。しかし女性に積極的にアプローチする男というのは(私も含めて)軽薄な遊び人タイプが圧倒的だろうと思う。だから美人のところには遊び人が先に手を出してくるから、彼らが壁となり、真面目で純真ないわゆる「いい人」は近づけないのである。
この傾向は特に学生時代には顕著に見られる。そういえば私の片想いの女の子もヤンキーと付き合っていたなぁ(この頃の私はまだ奥手であった)。
こういった理由から、ブスの方が、自分のことだけを見てくれる「いい人」と付き合える可能性が高いといえるのだ!
(ちなみにヤンキーや遊び人と付き合ったら幸せになれないと言っているわけではない。少なくとも遊び人の私と結婚した嫁さんはいまのところ幸せそうではある。いやきっと幸せに違いない。そう信じたい(笑))

問題は、「私はどうせブスだから恋人も出来ないし幸せになれないのよ」という間違った思考にある。
電車にでも乗って世間をよくよく眺めてみれば、ブスでもデブでもほとんどの人が結婚しているではないか。
学生時代は私よりモテていたイケメン二人も、一般的基準からすれば「ブス」と「デブ」とそれぞれ結婚した。仲間内では「なんで~?」と皆で驚いたものである。
「好み」というのは不思議なもので、それにしても世の中うまく出来ているもんだと感嘆せずにはいられない。あるいは強力な「種の保存の法則」のお蔭であろうか。ダーウィンに感謝である。
また男女逆ではあるが、私の友人に身長160センチの「チビ男くん」と体重100キロ超の「デブ男くん」がいる。一般的認識ではモテないくんの部類である。ところが現実とは摩訶不思議なり。
彼らのモテる秘訣は「明るさとユーモア」だと思われる。そしてそれを支えているのが「俺がモテないはずがない」という根拠のない自信だ。自尊心だ。
自分のことを好きだと思えるかどうか。ココがポイントである。

では、どうすれば自分のことを好きになれるのか?
単純ではあるが、毎朝「私は自分が大好きだぁ~!!」と叫ぶのも効果がある。これはくだらないように見えるが「アファメーション(肯定的な断言)」と呼ばれるれっきとした心理学の技法だ。
こうした一見馬鹿げたことを繰り返していると、自然と自分の良いところはおろか他人の良いところまで見えてくるようになるから不思議である。
自尊心を高める方法は他にもいろいろあるが、幸せになるための方法をいくつ知っているかよりも、一つしか知らなくてもその方法を「実践したかどうか」こそが幸せの秘訣。
早速今日から、世界の中心で愛を叫ぼう!!

タロットと魔術
タロット理論の発展において、最も重要な貢献を果たした人物が、19世紀最大の魔術師エリファス・レヴィ(本名アルフォンス=ルイ・コンスタン)である。

開闢紀元1613年、2月24日から、「水星」の天使、学術と言葉の天使、知性と勤労の天使ラファエルの統治が始まる。文字が発明されたのもこの頃である。最初の言語は象形文字を用いた世界共通の文字で、その今日まで残されている記念碑が、エノク、カドモス、トート、パラメデスらの書物、ソロモンが後に取り上げた「カバラ」の小鍵、テラフィム、ウリム、トゥミムらの神秘的書物、『光輝の書(ゾハール)』、ギョーム・ポステルの原初的『創世記』、エゼキエルの不可思議な輪、カバリストたちの「車輪(ロタ)」、魔術師やジプシーたちの間で用いられる「タロット・カード」である。

一冊の本も与えられずに牢屋の中に閉じ込められても、たまたま「タロット」を持ち合わせていて、そしてその使い方を心得てさえいたならば、数年のうちに彼は、宇宙全般にまたがる知識を手に入れて、万事にかんして比類ない理論と尽きない雄弁をもって語れるようになるであろう。


彼の著書『高等魔術の教理と祭儀』の及ぼした影響はタロットだけにとどまらない。ボードレールやランボー、イェイツ、バタイユをはじめとして思想・文学・芸術にまでその影響は広まった。

「魔術」というとテレビゲームの世界の話?と思う人も、また、うさんくさい中世ヨーロッパの非科学的オカルト・迷信であるように思う人もいるかも知れないが、当時においてはそんなにも科学とかけ離れたものであったわけではない。
魔術がたかだか百年ほど前までは当たり前のように研究されていたというのは新鮮な驚きであると同時に、現代の物質偏重を嘆きたくもなる。それとも量子力学あたりが新たな現代魔術の礎となるのだろうか?
20世紀最大の魔術師アレイスター・クロウリーの魔術の定義はこうである。
「意志に従って変化を起こす科学であり技である」

その源流となるのが、18世紀の医学者メスメルの提唱した「動物磁気」である。
宇宙全体に「動物磁気」と名付けられる測定できない微細なエネルギーが浸透しており、すべての事物に対して生命力を与えている源であり、人間の健康も左右している。よって人体の中に浸透しているこのエネルギーを調整することで、あらゆる病を治すことができる。動物磁気は宇宙の星の動きに対応するので、人間の健康を回復するポイントは宇宙のあり方と調和した適切な配置へと催眠によって動物磁気を導くことにあると主張した。
こうした考えに基づくメスメリズムは、当時のパリでは非常に多くの人たちに受け入れられた。
その後メスメリズムは、一方では催眠理論など生理学的メカニズムの研究として抽出され、フロイトの精神分析学へと引き継がれる。
もう一方では心霊主義と結びつき、動物磁気は「星幽光(アストラル・ライト)」という形でレヴィの近代魔術理論としてまとめられていくのである。

グッバイ、レーニン!(2003年)
母が心臓発作で昏睡状態に陥っている間に、ベルリンの壁は崩壊した。息子アレックスは、愛国主義者の母に二度とショックを与えないよう、崩壊以前の東ドイツを強引に演出するのだが。

「親孝行したいときには親はなし」などとはよく言ったものだ。
「泣ける話」などを見るにつけ「ああ、親孝行しとかなきゃなぁ」と思うのだが、分かっちゃいても気恥ずかしいというか、親孝行というものはなかなか難しい。
「母親のために」と想うゆえに、嘘のニュース番組を作ってまでドイツ統合の事実をなんとか隠そうとするアレックスの行動には、少々行き過ぎた感もあるが、親孝行の出来ない私にとってはなんとも羨ましく思えてくる。

ところで、どこの国の宗教でも道徳でも、口を揃えて「嘘をついてはいけない」と言われるが、一体どこまでの嘘なら許されるのか。
「相手を傷つけないための嘘」というものは本当に存在するのだろうか?
アレックスの嘘を見ていて、ナチスにより強制収容所へと連行されてしまった父が幼い息子に悲惨な現実を悟らせぬよう「これはゲームなんだよ」と笑顔で悲しい嘘をつく『ライフ・イズ・ビューティフル(1997年)』を思い出した。
もちろん、浮気を隠すための嘘を「相手を傷つけないための嘘」とすり替えてしまうのは論外である。

こうした問いは「ガン告知の是非」などの論議にまで発展しそうであるが、私としてはどんな嘘だろうが嘘は嘘であって、やはり「嘘をついてはいけない」と思う。
いくら「相手のため」と思い込んでいたとしても、ほとんどの嘘はつまるところ「自分のため」であるものだからだ。
アレックスの嘘もまた、最初は純粋に母親のためのものであったはずが、最後には己の理想の投影となっていたことに自分でも気づいていた。
ただ、そうではあっても彼の生き様が全て嘘であったことにはなるまい。そんな彼の嘘をほほえましく見守る母親の、息子の横顔に注がれる温かいまなざしが美しい。

小さな幸せ:気が利く店員さん
メガネのパッド(鼻あて)のネジがいつの間にやらゆるんでいて、右側のパッドをどっかに落としちゃったらしい。気づかないまま半日くらいを過ごしていた私も私であるが、嫁さんに指摘され、早速近くのメガネ屋さんに行った。
小さな店だが先客さんが2人いて、2人しかいない店員さんが対応に追われていたので、後ろの方でヌボ~として立っていると、アシスタントっぽい女性がイスを持ってきてくれた。ありがたい。
腰掛けて少し待っていると、紅茶を出してくれた。それも紙コップとかでなく、きちんとしたオシャレなティーカップでだ。
「まぁ~随分とサービスがいい店だねぇ」と思っていると、一人お客さんが帰ったので、パッドの交換をお願いした。300円でした。
お茶代を考えると「なんか得した気分」になって、気持ちよく店を出て自転車に乗ろうとしていると、アシスタントの女性が出てきた。

「あのぉ、余計なことかと思いましたが、タイヤの空気が減っていたので入れさせて頂きました」

ええ~!びっくり!!メガネ屋さんでこんなことまでしてもらえるの?なんて気が利く店員さんなんでしょう。
あるいはもしかしたらそういうマニュアルがあったのかもしれないが、いずれにしてもとても清々しい気分になって「また何かあったら来よう」という気持ちになったよ。

昨今では「顧客満足度」という指標を前面に押し出している企業が増えている。商品の良し悪しや価格の安さはもちろんだが、やはり最後の決め手は「人の心」である。その他大勢の一人でなく、世界にただ一人の「私」のことを大事にしてくれる、そんな心の触れあいが「また来たい」と思わせる。
例えば名前を覚えていてくれて呼びかけてもらったり、店に行くと必ずシェフ自ら挨拶に来てくれたり。私が何度も足を運ぶ店はそんな気の利かせ上手な店ばかりである。

こうした気の利かせ方は、どうやら女性の方が得意なようだ。私の勤務先でも異常に(笑)気の利く女性がいて、彼女の発案で突然の雨に対応できるように大量にビニール傘を用意しておいたりなどのいくつかのマニュアルが出来ている。
皆さんの身近にもきっとそんな女性がいるはず。そんな女性をもっと大事にして、彼女の行動やアイデアをマニュアル化しておけば、随分とお客様に喜んでもらえる顧客満足度の高い会社になると思います。
とはいえ、もちろんその場その時の臨機応変の対応がやはり一番なわけで、これは訓練しなければ身に付かない。いつも「どうしたら喜んでもらえるか」を心に留めながら試行錯誤していく中で、少しずつ身に付いていくものだ。
そして、こうして身に付けた力は、仕事だけでなく恋愛や近所付き合いにも生かされてくるようになる「一生の宝物」だ。
私も「気配り上手」を目指そうと思う・・・が道のりは遠い!?

幽体離脱に挑戦6
今日は体脱するゾ!と思えば大分出来るようになってきた感じ。

平成17年5月29日(日)AM6:30頃

今日の抜け方は、身体の足元を軸に幽体が直立したまま「スポンッ」と跳ね上がりながら飛び出た。
けれどもドアの方を見た瞬間、身体の方の視覚とダブって二重映像になり、身体の視覚の方へフェードイン。浅かったか・・・

「もう一度!」と思っていたら、また身体が震動してきたので身を任せていると、足だけが身体から浮き上がってきた。
その浮き上がった足を見てみると「幽体は透明」だった。「ほお!」
今度は自然に抜けなかったので、ローリング法(寝返り法)で抜け、身体を振り返ってみたら今回も身体は無かった。うーん?
「今度こそ部屋から出るぞ!」と張り切ってみるものの、相変わらず今回も身体の引力がもの凄い。台風レベルの逆風に向かっていくような感じ。あるいは幽体の頭のあたりにゴムのひもがついていて後ろに引っ張られるような感じ。
身体と幽体をつなぐ「シルバーコード」なるものがある(これが切れると身体に戻れなくなる?)とどこかで読んだ記憶があるが、これがそれなのか?
思い切って水泳の飛び込みやヘッドスライディングのようにジャンプしてみたら、部屋の出口の柱に手が届いた。柱をしっかり掴みながら、なんとか腕力で隣りの部屋へ。「やった!」
・・・その瞬間身体へと戻ってしまった。

ラブ・アクチュアリー(2003年)
舞台は冬のロンドン。秘書に恋した英国首相、入社以来2年7カ月片思いしている女、妻に先立たれた男、11歳の男の子の恋心、ミステリー作家の異国の愛などなど、19人の男女の物語がクリスマスに向けてそれぞれのハッピーエンドを目指す!

子供だろうが貧乏だろうが首相だろうがみーんな恋愛したいのだ。
「世界は愛に溢れている」がこの映画のテーマなのだそうだが、愛というよりは恋の物語。
正直恋愛映画は趣味でないのだが、嫁さんが借りてきたのでお付き合い。

恋が実った人たちに共通することは「攻め」の姿勢だろうか。やっぱり待ってるだけでは白馬の王子はやってこない。
言葉の壁を乗り越える為に語学教室に通ったり、ボーカルの少女に近づく為に苦手な楽器を練習したり。
「気持ち」は目に見えないものだから、言葉や行動や物というような目に見える「形」にしてあげることが大事だというわけだ。
「私の為にここまでしてくれるなんて」と思わせたら勝ちである。
とはいえ大概その形によって浮気もバレるわけだが・・・。

今まで頭が上がらなかったアメリカ合衆国大統領に対して、恋愛がらみの嫉妬から一転強気な宣戦布告をしてしまい、でもそのお蔭で一躍国民の英雄になった英国首相。
「英雄」というのは大抵弱き者にとっての代弁者なんだね。
ただ、敵をつくることによって初めて英雄が生まれるわけだから、英雄は幸せになるのは難しいかもしれない。ナポレオンしかり。
それにしても首相!恋愛にハマリ過ぎです。ちゃんと国政して下さい。

生き方として素敵だなぁと思ったのは、芸能界復帰を目指すロートル俳優ビリー・マック。
成功して女性もよりどりみどりという場面で、クリスマスの夜を過ごす相手に、長年苦楽を共にしてきた冴えないデブ男のマネージャーを選んだ彼は「粋」でした。

全体的にハッピーエンドな中で、一人だけかわいそうな女性がいる。長い間の片想いがせっかく両思いになれたのに、障害のある弟の世話の為にその恋を捨てざるを得なかった彼女。
でもそんな自分の選択を心から受け入れ信じることが出来た時、きっと彼女が一番幸せになれると思う。
苦悩を乗り越えてこそ、本当の意味で人生の意味を理解し、己が、そして全てが肯定されるのだから。

幽体離脱に挑戦5
どうやらコツを掴んできたみたい!?
本日はなんと3種類の抜け方を経験した。

平成17年5月24日(火)AM6:30頃

今日も嫁さんを見送った後、対外離脱のチャンスとばかり二度寝に入る。取り敢えず早く身体を金縛りに近い状態に持っていくために、今回は「自律訓練法」を使ってみた。

自律訓練法は、ドイツの精神医学者、ヨハネス・ハインリッヒ・シュルツがつくりあげたものである。1932年に初版が出版された彼の名著『自律訓練法』には、「集中的自己弛緩法」という副題がつけられているが、そのことからも推しはかることができるように、この方法は緊張をとり除くことが基本的課題になっている。一方、その本のはじめの部分には、「自律訓練法というのは、催眠をかけられた時と同じ状態になるように合理的に組みたてられている生理学的訓練法である」とも述べられているように、催眠をもとにしてつくられたものである。

標準練習は、基本的な練習である安静練習を含めると、次のような七段階の練習からできている。
背景公式(安静練習)・・・「気持ちが(とても)落ち着いている」
第一公式(重感練習)・・・「両腕両脚が重たい」
第二公式(温感練習)・・・「両腕両脚が温かい」
(以下略)

『自律訓練法の実際』(佐々木雄二:著)


これが効果を奏したのかどうかは分からないが、一回目の離脱が起こった。
上半身だけが「スッ」と浮き上がったので、幽体(?)の手を使って「よっこいしょ」と身体から離れた。
だがすぐに身体に戻ってしまった。

「もう一度挑戦」と思っていると、左の方からお経のような声がして(この時は霊の声かと感じたが、後から考えると隣りの部屋のテレビの音だったのかもしれない)、離脱できそうな感覚(意識が変化した感覚?)がしたので、今度はとある離脱経験者の方法として書かれていた「寝返り法」を使って「ゴロリ」と寝返りを打つようにして身体から抜けた。
ベッドの下に落ちてから、「抜け殻を見てみよう」と思ってベッドの方を見ると、なぜか身体が無かった。
「あれ?抜けてなかったかな?」と思っていると誰もいないはずの隣りの部屋でガサガサと物音がするのが聞こえた。「泥棒?」と思って見に行こうとするのだが、身体が思い通りに動かず(下半身が歩こうとするのだが上半身がついてこない感じ)、「クラクラ~」と妙ぉ~に眠くなって、「駄目だぁ、もういいや」と思ってベッドに戻って寝直した。

しばらくすると、前回のように主に下半身の方に震動が起こり、「ズルリ」と足元から滑り落ちるようにして抜けた。
床に落ちたのを手で触って確認し、とにかく身体から離れようと歩伏前進のような姿勢でドアの方へ向かう。視界は白い霧がかかったような感じで目指すドアが見えるのだが、上の方に覆い被さるような何かも見える(これは後で枕元のカーテンだったと判明。幽体の視覚と身体の視覚が二重にダブっていたようだ)。
えらい強い力で後ろの方に引き戻されるのを、四つん這いになって必死に抵抗して前に進もうとするのだが、結局力に負けて身体に戻ってしまった。

ある男の至高体験9 ~波乗~
(続き)
結果や見返りを求めないで「自分が原因になる」という生き方は確実に私の人生を変えてくれた。

「万物は流転する」
(古代ギリシャの哲人ヘラクレイトス)


人生には波があるように思う。そして波は絶え間なくやってくる。どの波に乗るかを見定め、さらにその狙ったビッグウェーブに乗れるかどうかは各人の力量次第だ。

高校生の頃、親父サーファーの叔父に連れられて、初めてサーフィンなるものをした。
湘南あたりで始められれば良かったのだが、初心者の私にとって時折チューブの起こる玄人向けとして有名なそのビーチは荷が重く、ランディングポイントに辿り着くだけでも一苦労だ。ポイントに近づくにつれて当然波が高くなってくるわけで、間近で見る高波は恐怖の一言に尽きる。波打ち際で戯れている方がどれだけ楽しいか。わざわざ危険に向かっていくサーファーの気が知れないと思った。そしてなんとかポイントまで辿り着いても、タイミングが合わなければ全くボードは進まないし、合っても小さな波だとちょっとしか進まない。つまらん。また、バランスを崩して落っこちれば波に飲み込まれ上下左右も分からなくなって地獄を見る。跳ね上がったボードが私をめがけて落ちてきた時にはほんと死んだ!と思ったよ。

あの頃は「乳首が擦れて痛いっ!」としか思わなかったが、今にして思えば、まさに人生と同じである。
自分を変えようとすることは難しいし、ある意味恐怖ですらある。
人は変化を嫌う。多少不満があっても現状維持している限りは良くもならない代わりにこれ以上悪くもならない。大きなリスクがないのだから安心だ。多くの人は不平不満を口にしながらも、こうしたコンフォートゾーン(波打ち際)から抜け出ることなく一生を過ごすのだろう。
しかし中には勇気を出してパドリングを開始する人もいる。恐怖に打ち勝って行動を起こしても、まずやり方が間違っていれば波に乗ることは出来ない。時期もある。大波の前後の小波に乗ってしまえば苦労して得たせっかくの幸運も長くは続かないだろう。そしてリスク。失敗すれば世間の波に翻弄され自分を見失ってどん底を這いずり回ることになるのである。

それでも波は絶え間なくやってくるのだ。上手くいくまで何度でも挑戦すればいい。
そうして勇気と行動と方法と時期が揃ったとき、人生は大波に乗った如くに好転し始める。自然に前へ前へと押し出され、やることなすこと上手くいくようになる。今まで私を苦しめていた人生の荒波は、いまや足元に平伏し私の支配下にあり、世間という海の上を、流されることなく自由自在に動き回ることができるのだ・・・「快っ感!」

そんな私のパドリングは、とあるトランスパーソナル心理学の勉強会から始まった。


幽体離脱に挑戦4 ~成功!?
最近まったく進展がないなぁと思っていたら・・・とうとうやりました!?

平成17年5月18日(水)AM6:30頃

共働きの嫁さんを「いってらっしゃ~い」と送り出した後、今日は私の出発はゆっくりめなので、もう少し寝ていようとベッドに入る。最近何も変化が起こらないので、少し強めに「身体から離れたい!」と願って、いつものとおり小説『蜘蛛の糸』の登場人物のように細い糸にぶら下がっているイメージをしながら眠りについた。
すると今日は下半身の方だけ震動が起こり「おっ!」と思ったのだが、すぐにおさまってしまい、「あーあ、残念。今日も駄目かな?」と半ば諦めながらも、もう一度挑戦。
そしたら身体全体が「じわ~」としてきて、突然・・・

「ズルリ」と意識(幽体?)が足元の方にずれていって、すべり落ちるような感じで身体から抜けた!!!

「やった!」
何故だか「壁抜けがしてみたい」と思って寝室の扉の方に向かおうとしたのだが、気づいたら天井の目の前に上を向いて浮かんでいた。電気が目の前にある。
霊的な存在がいるかな?と思って周囲に気を配ってみたが、どうやら近くにはいないようだ。
それで、ひっくり返って真下に寝ているはずの自分の姿を見てみようと思うのだが、うまく反転できない。
しょうがないので、取り敢えずこの部屋から離れることが先決だと思い、その態勢のまま壁の方に向かって泳ぐような感じでじたばたともがいているうちに・・・身体に戻ってしまった。

ブログと箱庭療法
さてさて、お前のブログは重すぎるとのご指摘により、デザインも大幅リニューアル。どうでもいいことだが、今度のデザインは実は、私の家のリビングの色調になっとりますです。
ところで初期の頃からご覧頂いている方々には、なんだか見る度にブログパーツが加わったり無くなったり、タイトルやデザインが変わったりするなぁと苦々しく思われているに違いない。
その時は「これだぁ!」と思うのであるが、しばらく経つとなんだかどうもしっくりこなくなって、心がモヤモヤしてきて、その事をずうっと考えているとあるとき突然アイデアがひらめく。「これだぁ!」。
そんな繰り返し・・・。
ほんとリンクして下さっている方にはご迷惑をお掛けしておりますが、こうして「あーでもない、こーでもない」と試行錯誤しながら自分の納得できる形を創りあげていく過程はなかなか楽しかったりする。

『幸福論』(春日武彦:著)によると、内向的なミニチュア指向によって自分の世界を縮小し、その箱庭の中に自分だけの小さなユートピアを作り出す「幸福もどき」なるものがあるという。

小さな世界は、すべてを把握し管理することが可能となる。不快なもの、おぞましいものを排除し、なおかつミニチュアの世界がこの世の中と対応し釣り合っているかのような錯覚を自分に与えることが出来る。そのことによって安心感が生まれる。


まさにブログの世界はそんな小さなユートピアになり得る。
そのミニチュアの世界においては神になれるのだ。好きなものを創造し、維持し、破壊する。また毒舌の悪魔にもなれるし、理想の人物や女になりすますことだって出来る(笑)
そんな安心感と万能感(匿名性の高さによる非日常性から生まれる開放感)の中で、人は現実の日常生活の中では口に出来ない心の内面を自然とさらけ出してゆくのだ。
(信頼と安全性の確保からくる「安心感」と非日常的空間における「開放感」はカウンセリングにおける重要な前提条件。家族や友人相手にカウンセリングが難しいのは後者がないため)。
実際他の人のブログを見ていると、その赤裸々な告白に「こんなことまでばらしちゃっていいの~?」と驚かされる。そしてそれによって、葛藤が解消され抑圧が昇華され、心が安定し統合されていく様は、なるほど現代の「箱庭療法」と言えるのかもしれない。
すべてのブログ管理者たちに幸いあれ!

(参考)
箱庭療法とは、内のり57×72×7cmの青く塗ってある箱、砂、ミニチュア玩具を用意し、それを用いて治療者の自由な意欲でジオラマ作品を作らせることによって心理分析を進めていく心理療法。1929年にイギリスのM・ローエンフェルトによって子供の為の心理療法として考案されたものを、スイスのカルフがユングの分析心理学の考えを導入することによって、大人にも効果のある治療法として発展させた。

幸福論2 ~幸せの本質
さて、『幸せを感じるのはどんな時?』のアンケート結果を見ると、概ね共感できるものの、そうそう!と大きくうなずけるものもあれば、それはそれ程感じないなぁというものもある。「幸せとは何か?」と考えた時、結局「何を幸せと感じるかは人それぞれ」だという結論になってしまいそうだ。
この結論はある意味で正しい。
人によって何に幸せを感じるかは異なるのだから「幸せは人の数だけある」のだろう。

しかしながらある意味でそれは間違いだ。
なぜなら、人によって幸せが違うのではなく、その時その場所における環境や精神状態の違いによって、何に幸せを感じるかが異なってくるのである。
例えば、おいしいケーキを食べて「ああ、幸せ・・・」とニンマリする人も、毎日三食ケーキを食べ続けさせられるとしたら、それは地獄ではないか?
さらに言うならば、それは幸せの「手段」であって幸せ「そのもの」ではない。

では、これら全てに共通する幸せの「本質」とは何だろうか。

ほとんどの場合「生きていてよかった!」と思えるときに幸せを感じるものと思われる。
試しにそれぞれのアンケート結果の第一位を見てみよう。
1.日々、健康な状態で過ごせていること→(生きていてよかった!)→「幸せだなぁ」
2.家族全員で過ごす時間→(生きていてよかった!)→「幸せだなぁ」
3.毎日が元気で笑って過ごせるとき→(生きていてよかった!)→「幸せだなぁ」
4.エステ・温泉・海外旅行など、日常生活から自由になれたとき→(生きていてよかった! )→「幸せだなぁ」
5.大好きな人と一緒に過ごすとき →(生きていてよかった!)→「幸せだなぁ」
他の項目も見てみて欲しい。例外はないと思われる。

つまり「幸せ」=「生きていてよかった!」である。
もっと正確に言うならば、良いも悪いも超越した「ああ、私は生きている!」という確信、すなわち「幸せ」=「存在のリアルな実感」である。

ところで、存在を実感する為には当然のことながらそれが存在していなければならない。存在していなければそれを実感することはできない。
そしてそこから驚くべき事実が導かれる。
それは、実感を感じようが感じまいが、私たちは生きているということ。存在しているということ。

探していた青い鳥はすぐそばにいた・・・幸せは実はすぐそばにあった・・・とんでもない!
私がいるということ、あなたがいるということ、それが幸せの本質なのだ!
すぐそばどころの話ではない。「私たち自身」が「幸せそのもの」なのだ!
だから決して幸せは逃げることはない。もしも見えなくなったとしても、無くなってしまった訳ではない。いつでもそこに在るのである。いつでも私たちに気づいてもらえることを待っているのである。
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